寺院名:沛龍山光賢寺 (はいりゅうざん・こうげんじ)
宗 派:真宗大谷派

【歴史】

当寺の由緒、縁起等の記録は明治6年6月26日の西讃血税一揆の際に寺に放火され全焼した為に詳しく知る事は出来ませんが、当寺の13代住職である賢了が江戸時代の享保年間に鋳造した梵鐘に刻まれていた銘文やこの他の古い資料を基に光賢寺の由来を記します。それによりますと当寺の開祖は敏達天皇の皇子高村将軍末孫三谷刑部之介光賢が僧となり、法名西念と称して当寺を建立し実名をもって寺号としました。

明治元年3月、明治新政府は官製の国家神道を推し進める為、神仏判然令(神仏分離令)を出しこれをきっかけに全国で仏教を攻撃する廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。讃岐でもっとも激しい廃仏毀釈の方針をとったのは多度津藩で明治3年10月、領内の寺院を統合して一宗一寺に する方針を出した。つまり1宗派について1寺のみ残して他の寺は廃寺にすると言う過激なものでした。

このため、この方針は猛烈な反発を巻き起こしました。信者の百姓の人達が「これまで長々と崇敬仕り候こと実に痛々しく存じ奉り候間何卒在来の通り御成しおき下され度、ひとえに一統願上げ奉り候」と陳情すれば寺僧たちも宝憧院(金倉寺)で連日協議した結果、当寺・光賢寺(琴平町苗田)の幽玄(ゆうげん)師と西覚寺(綾歌町岡田)の常栄師を先頭に寺僧達は焔硝を詰めた青竹の筒を背負って強訴し、要求が入れられなければ藩邸もろとも自爆すると威嚇しました。この為、宗門一揆に発展するのを恐れた藩は譲歩し、政府も明治7年に新教の自由を通達したと讃岐の歴史にも記されています。 これは「さぬき風土記」と言う本の中に幽玄師が名前とともに焔硝を詰めた青竹を背負い松明を持った姿が挿絵付きで紹介されています。

そしてこの幽玄師は幕末から明治に世の中が変わった時に、全国1万ヶ寺の中から本山の特別研修生に選ばれ当時としては最高の教育を受けています。
この幽玄師の後を継いで光賢寺の住職となった息子の諦玄(たいげん)師は全国の真宗寺院や真宗門徒に請われて毎年のように1ヶ月程の期間、法話に出向き親鸞聖人の教えを広める事に力を尽くした。この事が認められて本山から「大僧都(だいそうず)」の位を与えられ、四国教務所の責任者も務めています。現在の住職はこの諦玄師から数えて4代目、光賢寺の歴史全体からみれば24代目となります。

 

【本堂の特徴】

光賢寺の本堂は「竹やり騒動」とも呼ばれる「西讃血税一揆」で全焼しましたが諦玄(たいげん)師が住職を務めていた明治18年に再建されました。この本堂の再建には諦玄師が全国を法話して回った時に頂いたお布施がすべて充てられた結果、七間四方の本堂はけやきの大柱などの高級部材が随所に使われ130年が経った今でも寸分の狂いも出ていません。又、本堂のすべての梁には空中を舞っている天女や大波に雀そして大谷派の紋である牡丹の花などが両面に深く彫られ、又、内陣正面の欄間には真ん中に命の象徴である鳳凰(ほうおう)が彫られ、その両側には本堂を守る獅子が彫られています。更に内陣の格子天井には格子の中に更に小さな格子が組まれると言ったきめ細かいつくりとなってい る他、本堂正面の階段上にある紅梁の両端に取り付けられている龍の彫り物は大手仏具店の社長の話ではその精巧なつくりから京都か富山の欄間彫刻の仏師によって彫られたものではないかと言う事です。130年前に再建された本堂で静かに手を合わせれば時の経つのも忘れてしまうほど静かな気持ちで阿弥陀様を眺めていられます。

(竹やり騒動・・・・明治6年に今の三豊市で「税金が払えない者は明治政府から血を抜かれる。」というデマが流れ、これを本気にして怒った農民が竹やりなどで明治政府の出先を襲ったもの。この騒動は一気に香川県全域に広がり各地域の大きなお寺も襲われた。これは各地域の大きなお寺が当時小学校代わりに使われていたため政府の出先だと思われた為で、殆どが全焼している。光賢寺も小学校として使われていたため襲われた。山門にはその時の延焼した跡が柱に黒こげとして残っている。)